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日記501

 

 

1月のいつかに撮った、冬の青空と、傾きかけた陽光の写真。強風にあおられ花粉が飛び交い、猥雑な「お花見」の喧騒が始まる。日が長くなり、あかるくて生暖かい季節がほんとうにやってきて、冬の夢が描いたあの春は、もう消えた。冬が夢見るまぼろしの春が好きだった。春の未然形にくるまって、いつまでも幻想の暖かさを感じていたい。「ほんとう」は暴力だ。

 

 

 

 

詩人の感受性はいつも、わたしが秘している内側の忘れられたところへ光を当ててくれる。詩をたくさん読みたいとおもえる。詩人という存在が、そこに身を立てられることに感謝している。たとえわけがわからなくても、詩はなにかを照らしている。たぶん。そう信じて読む。

 

ことばはすべて、不在へ向けて語られるものだ。あるいは足りないなにか。自身の置かれている世界から欠落したなにかを埋めるように、人間はことばを発する。わたしはずっとそうおもっている。だから、「ほんとう」がやってきて、そこにはなかった、抜け落ちていたものが埋まってしまうと、もうなにも言えない。春はにせもの。そしてあけぼの。物理的な世界がリアルだというのなら、ことばはすべてフェイクだ。しかしわたしの体は言語で動いている。リアルを語り得る、にせものの道具がことばにほかならない。「ほんとう」はいったい、どこにあるのだろう。

 

全知全能の神さまがほんとうにいたら、人間はみなことばをうしなうだろう。比喩ではなく、言語は絶える。なにも言えない。沈黙するほかない。北京オリンピックで、水泳の北島康介選手が「なんも言えねえ」と金メダル&世界記録のよろこびをあらわした。とっさに出たのであろう、この開口一番のことばは、象徴的だったとおもう。あの瞬間、ほんの一瞬、北島選手の前にいたのは、インタビュアーではなかった。彼はじぶんの信ずべき「ほんとう」という神さまと、対面していた。

 

「ほんとう」を前にすると、ひとはなにも言えなくなる。それは無上のよろこびであり、同時に、永遠の喪失でもある。身を捧げて目指していた未来が、“いまこの瞬間”となり、やがて過去へと変わる。「ほんとう」の実現へ向けて生きることは、「ほんとう」を達成し、夢見た瞬間を過去に変えてしまう恐怖との戦いでもある。

 

春がほんとうに実現してしまう恐怖。季節は目指さなくとも、めぐりくる。なんの覚悟もしていないのに。たしかに望んだけれど。わたしはこんなものを、望んでいたのだっけ。あたたかくて、ひどい暴力。冬の夢の中で待ち望んだ春は、めぐってきた「ほんとう」の裡に消え去る。もうどこにもない。ほんとうに、どこにもない。

 

いまここにある春がほんとうなのか。冬に望んだまぼろしがほんとうだったのか。それはわたしにはわからない。どっちだろう、泣きたくなる場所は。ふたつ丸をつけて、ちょっぴりおとなさ。「喪失だけがわたしのリアル」と書きかけてから、『微笑みの爆弾』の歌詞を思い出した。泣きたくなる場所は、ふたつ丸。ちょっぴりおとなになれたかな。

 

喪失とは、「いつか持っていたもの」を思うこと。過去への執着。春は、わたしだけのものだった。決して手に入らないものを、うしなったものと化して、じぶんのものにしてしまう。それが喪失のことば。ケチで陰鬱な享楽に身をやつしている。手放すために、ことばをつかいたい。自由に向かって。わたし自身を、手放すために。

 

 

 

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