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日記502

 

 

放置ボトル。街の置物。こういうの、見かけるたびになにかそれぞれの主張を感じます。捨ててあるのではない。置いてある。また戻ってきてつづきを飲むのかもしれない。完全には手放していない。所持者の自我がほんのり残っている。いつかも書いたかな。ここには意識がある。捨て去るんじゃなく、意識的にそうっと置き放した。そんな手付き。

 

置いてある場所もなんというか、うまい。ここに置くか!という。エクセレント!掲示板の屋根の端っこ。エレガンス。一本取られた感じがする。いい仕事してますね。職人芸と言っても過言ではないくらい。これも人間の仕事です。生活の一部です。仕事をしていない人間なんて存在しないからね。そしてすかさず写真に撮る。これがわたしの仕事。勝手にコラボレーション。ほんらいは作者の許可をとったほうがいいのかもしれない。立派な作品だもの。仕事だもの。ひとが働いた痕跡です。無許可でごめんなさい。でもあなたの作品の良さはわかっているつもりだから。写真に残したいの。許しておくんちぇ。

 

 

***

 

 

なんか公文書の改竄で、ほかのニュースはだいたいぶっ飛んでいますが、3月11日に書き残していたことをいまさら思い出したので、というか決して「いまさら」なんかではなく、震災の日とは永遠に地続きなのだけれど、書いておきたいと思います。

 

 

 

 

2011年3月14日。社会学者、久保田裕之さんが震災の3日後に残したtweetをたまに思い出すのです。そう。いまじゃもう忘れている方が大半なのかもしれないけれど、あのとき、わたしは、楽しかったよ。ほかのひとも、どこか楽しそうだった。どこか、へんに。街もネットも湧き立っていた。浮足立つような。

 

もちろん、かなしい出来事であるのはわかっている。多くのひとが亡くなった。家が倒壊した。流された。原発が飛んだ。「不謹慎」。ええ、承知の上。しかしそれでも、いかんともしがたい、高揚感があった。そして、その「不謹慎」でも度し難い高揚感こそが、人々を繋げ、動かしていたのだと思う。これは確かに言えることではないか。

 

まいとし「忘れない」ということばが、よく繰り返されます。なにを忘れてはいけないのか。かなしみや、いたましさ。うしなわれたネガティブなもろもろ。それもそうかもしれない。でもわたしがいちばん忘れたくないのは、あのときの高揚感なのです。非日常を楽しんでいた。罪悪感がないことはないが、久保田先生もおっしゃるように「目を背けてはいけない」。

 

東京でも余震がつづき、停電が起こり、身の危険を感じる中、不安で、だけど居ても立ってもいられなくなる、その感覚。駆り立てられる抑えがたい気持ち。これを「楽しい」と表現するのはたぶん語弊があるけれど、あえて「楽しかった」とわたしは言いたい。3月11日は、沈鬱な面持ちでうつむくためだけの日ではない。それで済ませていい日ではない。お祭り騒ぎだったじゃないか。

 

同じようなことを思うひとはいくらでもいるだろうけど、見かけない。おそらく、こういうことを少しでも名のあるひとが発言すると、ヤフーニュースなんかで短く見出しを切り取られて、見出ししか読まない方々が怒り出したりなんかして、うまく伝わらない。そんな予測が容易にできるから、きっと思っても言わないのかな。わからない。だけど、だれでもきっと、あの日に湧いた感情は、かなしみだけではなかったでしょう?

 

危機意識からくる高揚感を、この社会は飼いならすことができず、忘れてしまったのかもしれない。いつもメランコリックなことばが飛び交うだけ。泣いてばかり。泣き寝入るためのきれいな道徳は必要ない。というか、いまはべつのニュースで高揚しているのか。いま騒ぎになっているニュースだって、ほんとうにひどいと思うけど……。半端な社会派はかっこわるいからやめよう。

 

 

 

 

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