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日記505

 

 

聞きたくない愚痴をえんえんしゃべってくる母に「あーごめん聞こえない!聞こえない!」と言いながら、CDラジカセでかけている音楽のボリュームをガンガン上げる。なんなら歌い出す。「いま歌ってるから聞こえない!歌がやまない!love is over~♪」。なぜか欧陽菲菲だった。それも初期のマキシマムザホルモンがカヴァーしたやつ。

 

わたしはこういう嫌味な態度をとるときがある。でも、わかりやすいからだいじょうぶ。爽やかにいきたい。できれば笑えるような。ねちっこい陰湿なことはしない。というかできない、アホの子だから思いつかない。嫌味は正面からわかりやすく。殺すときは背面から一撃。それがポリシーです。すなわちピースな愛のバイブスでポジティブな感じです。これは座右の銘です。

 

過去にも連呼しているのにいちども説明していませんが「ピースな愛のバイブスでポジティブな感じ」は、窪塚洋介さんが放った名言です。正確には「ピースな愛のバイブスでポジティブな感じでお願いしますよ」。窪塚さんの長女が誕生したときのインタビューで、マスコミに向けて言ったお願いのことばです。

 

もし気になったら調べていただければよい、と思ってしまい、なんでも説明を省く癖があります。手取り足取り説明しまくる親切な文章が好きではないというのもあります。ぶっきらぼうにわけがわからないテクニカルタームや固有名詞をガンガンぶつけてくる挑戦的な態度を好んでしまう。「このくらい知ってますよね?」みたいなインテリの嫌味なメッセージにイラッとしながら、必死で調べる。くやしいから。じつは負けん気がつよいのです。負けん気がつよすぎて勝負から逃げがちなヘタレです。ふにゃふにゃに噛み砕かれまくった歯ごたえのないものは、ひとをばかにしていると思ってしまう。噛み砕く努力もたいへんなのはわかるけれど……。

 

こういう態度がたぶん「プライドが高い」というのかな……。お高くとまっている。でもわたしはこどもに対してだってあまり手加減はしたくないのです。なるべく本気の態度で接して、それに応じたものを相手からも受け取りたい。舐めた半笑いの態度でいたら、舐められたものしか返ってこないのです。それはつまらない。ふざけてあそぶときも、本気のやつがほしい。おためごかしはやめよう。そんな態度で6歳の甥っ子とも接している。

 

もちろんちがう人間だから、調節というか、受信できる周波のチューニングを探すようなことはしなければならない。共通のチャンネルをひとつでも確保できるようであれば、そこからお互いに、すこしずつ受信環境を広げたい。いろんな周波数の電波を受信できるとたのしいと思う。ノイズに思えたものの中にも、なんか埋まっているかも。北朝鮮からの暗号みたいなラジオ放送だって、聞いていればわかってくるかも。わかったならわたしは工作員の才能があるかも。就職先が決まるかも。

 

うん。でもどんな本気も、9割はつりあわない。相応にはならない。ちぐはぐです。じぶんでも「本気」がわからず、なにやっても半端さが拭えないせいか、舐められてとうぜんと思っているから、逆に「本気」が返ってくるとビビるくらいです。

 

いろいろ、ひとりで空回りしていたけれど、べつに空回りでもかまわないと思ってやっていたら、ひとりくらいは本気にしてくれるみたい。あ、わかった。逆だ。「本気」って、じぶんで判断するものではないんだ。「本気にされる」ものなのかもしれない。じぶんじゃわかんない。なにがわたしの本気なのか。なるほど、これがわたしの本気だったのか〜。と、ひとから信頼されて、初めてわかる。発見してもらえる。

 

だから、つりあわないのではない。本気にされない限り、「本気」は存在しないのです。「じぶんがこうだと信じているじぶん」なんて、取るに足らないのです。そんなもん捨てちまえ。あさっての方向でも、他人から本気にされてしまった部分に、わたしが存在する。「俺はまだ本気出してないだけ」ということばを本気にされれば、本気を出さざるを得なくなる。本気のほうへ強制連行される。本気になれる。「本気」がじぶんじゃわからないけれど、他人からなにかを本気にされるための真摯なアウトプットは絶やしてはいけない。きっと違いの、わかるひとはいます。そう信じて丁寧にこさえていましょ。

 

直前に書いたことをどんどんくつがえしてゆくなあ……。書きながら、いつもかんがえが変化していくから、長くなってしまう。10年ちかく眺めているtwitterがずーっと苦手なのはこういう理由もある。思考を、短く切り上げるわけにはいかない。

 

わたしにとって「かんがえる」って、変わってゆくことだと思う。どんな話し合いも、議論も、変化を前提にしないと文字通り話にならない。主義主張があってもいいけれど、固く決めてかかっては、なんにも受け取れない。相手にもじぶんにも聞く耳がなければ、発することばもありません。聞きたくないことについては沈黙する。音楽でも流して耳をふさぐ。love is over~♪

 

 

 

 

なにも聞かず応答せず一方的にわめき散らし、ひとのことばを奪うために主義主張があるのではありません。あたりまえですが……。これがあたりまえであってほしいと願う。どんなものでも、他人のことばを奪いたくはない。暴力的なひどい言い草でも、ことばのレベルではあってもいいと思う。よく言われる「あなたの意見には反対だが、あなたがそれを言う権利は死んでも守る」みたいな話かもしれない。しかし、権利を守るという、このことばだって、じつはなにかを奪っているのです。これを言われた論敵は、意気を挫かれるだろう。穿って見ればいわゆる「マウンティング」の一種とも読める。なにも奪わないことばなんか、ないのかもしれない。ロラン・バルトが言う「零度のエクリチュール」みたいな。どんな定義もかわす、無垢で、自由な文体。んなものはない。ことばは呪縛。あったとしても、自由が見出された瞬間に自由は死ぬ。自由は一瞬のうごめきでしかない。わたしたちは、名前のない無垢な姿には二度ともどれない。

 

わたしのことばも、すべてなにかから奪われた。どこかへいった。ほんとうは「わたしのことば」ではない。言わされている。言語というウィルスに脳味噌を乗っ取られて。そして、わたしもまた、奪う側にまわっている。どんなにきれいごとを抜かしても。非常に浅薄な現代思想の知識をふりまわして、なにいってんのか。なにが本気だよ。次はジュディ・オングを歌って耳をふさごう。ジュディ・オングと欧陽菲菲はなぜかセットです。

 

おんなはうみ〜。

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