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日記506

note.muに書いた記事のコピペです。

 

 

 

 

3月20日(火)。夜聴の会、という催しへ足を運びました。CDアルバムとして、作り込まれかたちになった音楽をじっくり通して聴いてみようの会。「夜聴の会」で検索すると、氣志團も同タイトルのイベントをやっていたみたいですが、氣志團とはなんの関係もありません。

 

13時ごろ、ひとり新宿に到着。初台までは新宿駅から歩いて20分くらい。夜聴の会は19時から開場なので、わーい時間がいっぱいあるー。

 

ということで、とりあえず350mlのストロングゼロを買って街をふらつく。新宿にはストロングスタイルで臨む。ストロングあかんやつスタイル。お酒は控えているのですが、郷に入っては郷に従うのです。新宿には平日でも、ストロングあかんやつ仲間がたくさんいるから。どこかに。たぶん。お酒はそんなに飲むほうではありません。同調圧力です。新宿という街の磁場による無言のパワハラです。NOと言えない日本人です。

 

6時間ほど、たんに新宿をふらつく。お金もつかわず。ストロングゼロ1本と、鮭おにぎりを買ったくらい。お水を家から持参していたので主にお水で腹を満たす。ストロング貧乏人スタイルです。お水おいしい。わたしたちヒトはそもそも始原、水の中から誕生したのです。水があればわたしは死なない。貧乏なんて気にしない。いざとなったら退化して海へかえる。海よ、俺の海よ。そのつもりでいるから、日々エラ呼吸の練習は欠かさない。名前のあたまに「エラ」を冠してもよいくらいだ。エラ・フィッツジェラルドみたいに。いつまでも人間やらされる筋合いはない。従ってられるか。飽きるわ。パンがなければケーキを食べればいい。それと同じことです。ね、アントワネット。

 

アントワネットとは幼い頃からマブダチで、ふだんは親しみをこめてアントンと呼んでいます。わたしにとって「アントン」といえば、猪木でもチェーホフでもなく、マリー・アントワネットのことです。彼女はわたしのことを「ほしのん」と呼んでくれる。ふたりは激マブ。そしてプリキュア。プリティでキュアキュアなのです。アントンの名誉のために付け加えておくと、「ケーキを食べればいい」と発言したのが彼女だったのかはわかりません。アントンはいつも「あたし、あんなこと言った覚えないのよ、なんなのかしら!ぷんぷん!ルソー殺す!」と口癖のように訴えてきます。ごめんね、アントン。ごめん。でも、ひとは濡れ衣を着て生きるものだから。あとルソーも悪くないから。

 

……いけない。

 

初っ端からこんな与太をつづけていたらいけない……。あるある早く言いたいのに。この時点ですでに脱落者続出だと思う。すみません。要するに、こういう益体もない物思いをめぐらせながら、たまにどうでもいい写真を撮ったり、ラジオや音楽を聴いたり、適当なベンチに座って文庫本を読んだりし、ひとりで6時間を過ごしておりましたとさ。

 

ひまができると不安になる方もおられるみたいですが、わたしはうれしくて仕方がありません。お金がなくったって、なにもしないでいられることはたのしい。課すことも課されることも、なにひとつない時。平日だし、道行くみなさま方は、どこかお忙しそうで、ひとりひとりにおつかれさまですと100%余計なことを言って労いたくなる。いい身分とはこのことです。そろそろ、初台まで歩こう。なんだか申し訳ないな、とも思ってしまう、このよくわからない罪悪感まで、歩調にふくめて。

 

初台のArtist Lounge、19時過ぎに到着(やっと)。防音の重いドアをぐいっと開けると、壁にギターがいっぱいの店内。Taylor Guitersの専門店だそうです。といわれても、あまりピンとこないレベルのわたしです。予約すれば、ばっちり防音された静かな店内で心ゆくまでTaylorを試奏することができるという。めっちゃすごいお店です。すごいんです。そう、すごい。ここはすごいのだ。

 

入るなり、受付の田畑“10”猛さんと目が合う。この怪しい会の主催者です。もらすとしずむ、という怪しいバンドを率いている方でもあります。そして怪しいファッション。袖や襟がちょっとほつれていて、うちのおばあちゃんが見たら「来なさいアンタ!縫ってあげるから!」と首根っこを掴まれそうな感じの。

 

「ホシノです」と、ちいさな声で苦しげに言って入場料を払い、かんたんに受付を済ませました。ほとんどいちにち無言で過ごしていたので、この日しゃべった3言目くらいでした。名乗るまでもなく顔をおぼえていただけていたようで、恐縮です。でもわたしの本体は頭部ではなく、じつは襟元についていたチンアナゴのバッジ。ほんとうはホシノなんかじゃない。チンアナゴなのでした……。うそついてごめんなさい。

 

 

 

 

こんな感じのちいさなステージが用意されておりました。そしてお客さん用の簡易的な椅子。穴が8つ開いた丸椅子。ギリギリの時間に着いたため、椅子はほとんど埋まっていました。空いているところをさがして座る。

 

さて、夜聴の会が始まります。ようやく、あるあるが言える。早く言いたかったんです。夜聴の会あるある。アントンのくだりとかぜったい必要ないと思う。

 

でもはじめて参加した企画だし、開催も、初なのかな。だから「あるあるネタ」なんかありません。はい。これからつくられてゆくのです。伸び代ですね。ここが物語の始まりです。俺たちの戦いはこれからだ!!

 

 

完。

 

 

 

 

 

えっと……。冒頭にすこし注意事項などの説明があり、ほどなくMARY BELL PROJECTというユニットの1stアルバムとなる作品『New World Order』を、フルで聴く段に。前情報は入れず。わたしはぜんぜん知らない状態でした。

 

この作品を選んだのは主催の田畑さん。いまは田畑“10”猛さんが夜聴の会を仕切っていますが、田畑さんご自身もさまざまな作品に触れたい気持ちはあるから、いずれほかの方に仕切ってもらってもいいとおっしゃっていました。

 

約48分の音楽鑑賞。聴くだけ。ねむくなっちゃうかなーとか、手持ち無沙汰かなーとか、じっとしていられるかなーとか、こどもじみた心配をしておりましたが、杞憂でした。わりと早い。ほんとうに約48分もあったのか疑わしくなるくらい。

 

初めて聴く音源だけれど、道に迷うような不安がなかったのです。まったく見知らぬ場所へ行くと、馴れないものにふりまわされて時間の流れは遅くなる。馴染みの場所では逆に、早まる。対人関係でも同様に、得体の知れない人物と接している時は長いが、親しいひとと接していると、あっという間に時間が経つ。

 

まるで知らないはずなのになぜだか、すっとじんわり耳に馴染んでくる。親しく接してくれる。MARY BELL PROJECTの作品は、じぶんにとって心を許せる音楽だったのだと思う。

 

以下がアルバムのダイジェストです。

 

 

 

 

休憩時間を挟み、3人のメンバーや、もうひとりアルバム制作に携わったすごいイケメンの方と、田畑さんのトークを聞く。

 

トーク内容で印象的だったのは、歌詞がないというところ。わたしはことばを変に気にしちゃう人間なので、英語っぽいような何かよくわからない発音で、なにごとを言っているのか知りたかったのですが、歌っているHeidiさんの造語だそうです。なにごとも言っていなかった。意味はないらしい。しかし、からっぽでもない。輪郭のない内容が、息づいている。そんな歌声。

 

あえて名付けるとすれば、何語なのかなーと帰路についてから質問したくなりました(おそい)。でもだいじょうぶ。とぼとぼ歩きながら考えていて、自力で結論までたどりついたのです。「語」ではない。ズバリ、あれは寝言なのではないか。いい意味でね。寝言。

 

Heidiさんは歌いながら夢を見ているにちがいない。脳の言語野が半分くらい寝ている。夢の中で生起しているなにかを、歌として響かせてくれている。だからこちらまで、文字通り夢見心地になってしまう。他人の夢に巻き込まれているような、妙な感覚に陥る。空気がHeidiさんの無意識に覆い尽くされてゆく。

 

 

 

 

おまけのミニライブも鑑賞。歌うときの彼女は半目、もしくは目を閉じがちで、よくある歌い手の姿かもしれないけれど、なんとなく意識のレベルを下げているような感じもうけます。しかしビョークのカバーをやっているときの意識レベルはおそらく鮮明でした。スイッチがある。ご自身の「造語」で歌うときには意識を低下させる。昏睡の只中にみずから踏み込み、声にならない声を語る。聴いているこちらの意識まで影響される。空間がぼんやりと、しかし明瞭に浸食されてゆくような。ICU(集中治療室)なんかでもかけられたことがあるそうです。

 

そうだ、過去に、そば打ち体験をしていたというお話も聞きました。心を無にし、そばを打つというその時間も存分に音楽へ活かされているのではないでしょうか。雑念を飛ばす作業。そば打ち体験を経た者にしか出せない特殊な音色も混ざっていたような(なにそれ)。

 

Heidiさんの歌は、コントロールされた寝言。という解釈は、当たらないまでもそう遠くはないのではないかと感じます。意識を白熱化してガツンと歌うボーカリストと、無意識からふっと湧き上がるものを歌うボーカリストの2種がいるとするなら、MARY BELL PROJECTのボーカルは後者の極北です。

 

 

 

 

質問や感想を募るコーナーで、メンバーのHiroseさんが、11分15秒あるアルバムさいごの曲の長さについて心配しておられたようですが、わたしはレイザーラモンRGのあるあるネタが大好きなので、このくらいの長さがむしろ嬉しかったです。もっと焦らして!と言いたいくらい。あるあるは永遠に宙吊りにして!いや、比較対象が完璧にまちがっているな……。そもそもあるある言わないし。的外れが過ぎる。その場で発言せずに助かりました。

 

音楽を語るための熱い語彙がばんばん飛び交うなかいきなり「レイザーラモンRG」はどっちらけだろう。ばかにしているのか。アホなのか。いや、それが残念なことにまじめなんですよ……。「寝言」という分析もちゃんと説明しないと暴言にしか聞こえない。すばらしい、最高の寝言なのです。

 

 

 

 

ギターのFujinoさん。あからさまな口下手にシンパシーをおぼえます。マイクにあまり声が通らない感じ、愛おしかったです。しかしギターを手にすれば顔つきも一変し、長髪にメガネも相まって映えまくり。別人のよう。その横顔は、まるでレノンでした。いまにも「ヨーコォ!!」と叫びだしそう。格好いい。

 

 

 

 

そんな感じで、夜は更けていきましたとさ。

 

夜聴の会、おもしろかったです。音楽の聴き方、出会い方は、多様であっていいと思う。べつにさいごまで聴かなくても、好きな部分ばかりをリピートしまくってもいい。1曲で見限ってあとは触れない、それもいい。自由です。でも選択肢はいろいろとあります。決めつけてしまわない。

 

この会に行ってみて感じたひとつは、ものをつくることにかける時間と、つくられたものを消費する時間の非対称性です。あたりまえですが、つくり手と受け手の感覚は異なっていて、つくり手の話を直に聞き、その差異を知ることは単純におもしろい。『New World Order』というアルバムは約48分で終わりますが、この時間が成立した裏にはさらなる膨大な制作時間が具体的に存在する。その一端に触れ得たことが、うれしい。

 

もうひとつ。音楽を後景に退けず、音楽を音楽としてのみ聴いてみることが、すこし新鮮でした。なにかの付属物として音楽をあらしめるのではなく、音楽は音楽として。いつも聴いているつもりだったけど、ぜんぶBGMとしてだった。つくられた音源を前景化させることは、日常でしないかも。ぼーっとCDだけを聴くなんて、時間がもったいない!と思ってしまいがち。なにかほかの意義が欲しくなってしまう。

 

音楽は音楽。あいだにはなにも挟まない。これだけでも充分、意義はあるのです。でも「A=A」という単純な等式を、単純なままに受けとることが、いちばんむずかしいのだと思う。きっと音楽に限らない。

 

作家の高橋源一郎は「昔、ビートルズが新曲を出すたびにすごく緊張した」のだといいます。保坂和志の『考える練習』にあったエピソードの股引です。果たしてじぶんはビートルズの新曲についていけるのか。

 

じぶんの価値判断を手放して、丸腰でそのままのなにかを享受するのって、緊張するんです。思い込んだ結論をだいじに抱え込み、安心していたい。だけど結論ありきじゃ、なにも受け取れない。みずからを手放すことは、みずからを試すこと、なのですね。ビートルズに試される。MARY BELL PROJECTに試される。田畑“10”猛に試される。ひぃぃ。こわい。

 

とはいえわたしの楽しみは、きっと、知らないなにかに試された先にしかないから。いろんなひとや、もの、ことに身を投じて、試されてゆこうと思います。答えに安住せず、問いにさらされたい。

 

ことしの抱負です(おそい)。

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