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日記513

 

 

きのう、書きかけの記事が消えたショックといきおいでTumblrを新たに立ち上げてしまいましたが、まだ迷いがあります。この場所のゆいいつ良いところである、「誰も見てない感」がすこし薄まる。かならず誰かひとりかふたりは見ているはずですが、だれのこともあまり意識せずに書ける。

 

いや、見られている意識はあります。それがないと、ものを書くことはできない。しかし具体的ではないのです。ふわっとしている。直接、面と向かって「ユーの日記、読んでるよ」とジャニー喜多川みたいに言われたこともありますが、ひとりで書いているときは、実感がともなわない。

 

TumblrのようなSNSっぽいサービスだと、具体的なひとが見えます。名前のあるひとの前では緊張してしまう。朝、同居している家族と顔を合わせるときでさえ、微妙な緊張感がある。今週は、両親が不在で祖母とふたり暮らしをしていますが、ひとが減ると、へんな緊張感も減ってラクだとすごくすごく思う。家事の負担は増えるけれど、気持ちが自由になる。誰といるときも緊張している。どんなに親しい間柄でも、肉親でも、何年いっしょに過ごしても変わらない。ひとがいないと活き活きしている。

 

たぶん、わたしとお会いした方はみなさんギャップを感じると思う。それは緊張しているからですよ!!でも、わたしの中ではギャップなんかありません。ぜんぶわたしです。「どっちがほんとう?」「どっちもほんとう」。

 

無意識に構えて、不必要に緊張してしまうせいか、ひとと会うと疲れます。さいきんまで、疲れやすいのは体力がないからかなーと思っていましたが、緊張感のせいだと気づきました。無意識に、からだがこわばっている。ふつうに、フルタイムで勤務をしていたときも、わたしだけ異様に疲弊していたような。「ふつうのひと」についていけない劣等感があった。いまもある。つづかないな。

 

きのう誤って消えちゃった文章の中で、「被写体の意識はいらない」ということを書いていました。写真の話。「インスタ映え」を意識することって、つまり被写体になる自意識のことで、街にそんな自意識があふれていたら、意識するほうもされるほうも疲れてしまうよ。ってなことなどを書いていました。わたしは撮りたいもんを勝手に撮っていたい。

 

同様に、書きたいことを勝手に書いていたいけれど、具体的なひとが浮かぶと、いけない。あなたのことを考えてしまう。他人のことばかり思って生きてきた気がする。いまこれを表明することにも迷いがある。こんなことを言ってしまったら、ここを読んでくれる友人に気を遣わせてしまう。いけない。いけない。

 

いいひとぶっているわけではない。ガチでいいひとだかんな!!!言っとくけど、わたしはいいひとです。ははは。ほんとはどうでもいいひとかもね。

 

緊張することは、悪いことではありません。誰かのためにするのではない。目の前にいるひとがよろこんでくれると、わたしもうれしい。その気持ちが強いからたぶん、じぶんの身勝手な意志は減らす。ちょっとした他人への恐怖心も否めないけれど。合わせないと、わたしはひどくマイペースだから。

 

……ちがうか。

 

核心はそんなんじゃない。

きれいなことを書いても、しょうがないね。

 

やっぱり、こわいのかな。ひとがこわい。「対人恐怖症」ってほどではない。でもこわいから、ひとの気分を害さないようにふるまってしまう。正直なところ、こわくて仕方がないんだ。こう書くと、被害者みたいだけど、そうではない。

 

きっとこれは自己への恐怖に端を発している。なにもかもぶち壊して台無しにしてしまいたい、暴力的な衝迫が、じぶんのからだの内奥に重く沈んでいる。そのことを知っているから。そこまで大袈裟ではなくとも、わたしの中には暴力性がある。「ひとがこわい」と「じぶんがこわい」はイコールで結ばれている。加害者意識。

 

じぶんの加害性を意識すると、他人の加害性もこわくなる。特に「加害性」なんて意識しない人間が多くて、それも恐怖心を増す遠因。

 

名前を呼ぶ、呼ばれることの中にさえ、暴力性はある。すべての感覚は痛みだと思う。よろこびも、かなしみも。どんな快楽だって、笑いだって、楽しみだって、痛みの一変種だ。痛覚しかない。痛み以外の感覚なんかない。あなたから名前を呼ばれるよろこびも、痛み。あなたの名前を呼びたいという、この情動も、痛み。

 

ひとは針のむしろの上で生きている。

 

みずからのことばやふるまいの中に存する暴力性に気がつくと、やはりこれはコントロールしないといけないと思う。油断すると、傷がつくし、傷つける。いやちがう。生まれたときから傷はついているし、傷つけている。なにも悪くないのに。だれも悪くないのに。ひとはいずれ生きていけなくなる。それでもなにか言わなきゃいけない。

 

わたしのもつ「緊張感」の内実は、そのようなものです。たぶん。

 

ただ、うっかり痛みを忘れて、痛覚をべつのものと錯覚しているひとときというものもある。そうやって、錯覚しなければ。これは、三角みづ紀さんの詩集のタイトルだけど、いつだってそう。錯覚しなければ。錯覚しなければ。誰も殺せない。ゆえにみんな殺している。死にたいし殺したい。錯覚しなければ。

 

信ずべくは痛覚と、錯覚。

 

 

***

 

 

徹子の部屋に歌手の八神純子さんが出演されていて、さいごのさいごにザ・ベストテンの話題が出ました。黒柳徹子さんと、久米宏さんなどが司会をつとめていた音楽番組。その数秒間の会話の妙を、うろ覚えで書き起こします。

 

 

徹子「あなた久米さんに太ってるっていじめられてましたよね。あたし太ってない!って言い返したのよ」

 

八神「徹子さん守ってくださって……」

 

徹子「でもかわいかったわ、あなた。ムチムチしてて」

 

 

このへんでちょうど番組が終わる感じで、八神さんの微妙過ぎる面持ちがおもしろかったです。太ってないけど、ムチムチしてたんだ。それって、やっぱり太ってたのでは……。

 

徹子さんの話法はおもしろいなー。聞いていると、「でも」が多いです。意見をするような「でも」ではなく、あとには肯定がくる「でも」。でも、いいですね。でも、かわいい。でも、素敵。でも、おもしろい。みたいな。つねにネガティブな方向へは傾かないようにしているのかな。

 

徹子の部屋は、死にまつわる話が多いけれど、徹子さんはかならず「でも」であかるく転換する。ずっとそうやって生きてきたひとなのだと思う。つらいことがあっても。でも、でも。

 

 

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