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日記510

 

 

早くも散った。

 

桜って、いきなりわさわさ咲いていて、びっくりします。3月後半の数日、すこし家から出ずにいると、とたんに景色がさまがわりしている。おとぎ話の住人にでもなったようなおどろき。ここはどこ。

 

そんなことより、「ぬいぐるみの旅」という活動を知ったのです。ぬいぐるみに旅をしてもらうそう。NPO法人日本ぬいぐるみ協会さんの取り組みです。病気などのさまざまな理由で、じぶんから旅行に出たくてもできない方などが、ぬいぐるみに旅を託すそうです。他人のぬいぐるみを預かり、ともに旅をするホストファミリーもいるみたい。

 

抽象的にみじかく要するに、自己の望みを物体に託して代替するということ。すごくおもしろい。人間っておもしろいなー。どこから目線だかわかりませんが、人間のおもしろみを感じます。そして、わかる。ぬいぐるみは、わたしなのだ。

 

「託す」という行いは、けっこう日常でだれもがやっているのではないかと思います。たとえば、さいきんまでやっていたオリンピックの応援なんか、というかスポーツは全般そうかもしれない。「応援」というと、ちゃんと自他の区別をつけて、わかってやっている能動的な感じがしますが、ほんとうはもっとどうしようもなくグズグズで、自他の別なく、べちゃっとくっついているのだと思う。上品な「応援」ができるひとはそういない。多くのひとは、自己の一部を他人におっかぶせて託しているのではないか。

 

「野茂がもし世界のNOMOになろうとも君や私の手柄ではない」という枡野浩一さんの有名な短歌があります。なにかあるたび、引用されまくる。たぶん枡野さんの短歌でいちばん有名なものだと思う。これはその通りで、野茂英雄の手柄なのです。枡野さんは、ものすごく正しいことをおっしゃる方です。嫌味ではなく、世間から離れた信頼に足る正しさを持って生きている。この乾いた視線がわたしはすごく好きなのです。

 

でも、野茂が世界のNOMOになったら、おなじ国の人間としてうれしくなる。その気持ちもわかります。「おなじ国」ぐらいしか共通項がないけれど……。なんかうれしくなっちゃう心理はあります。どちらも正しいのだと思う。じぶんのぬいぐるみに旅をしてもらうよろこびって、世界で活躍する日本人を眺めるのと似た心理なのかなーと思います。

 

たとえば、ぬいぐるみに世界一周旅行を託した、病床にふせるひとへ向かって、「あなたのぬいぐるみは世界を一周したが、あなた自身は日本から1ミリたりとも出ていない」と言ってしまうのは、事実として完璧に正しいのだけど、完璧に正しいがゆえに、残酷すぎます……。無味乾燥で冷厳な事実。

 

ぬいぐるみは、わたしではない。野茂英雄もわたしではない。日系イギリス人のカズオ・イシグロも、羽生結弦くんも、イチローも、わたしではない。わたしではないけど、ちょっぴりわたしなところもあるのかも。なんかうれしい。

 

「日本人すごーい」みたいなことが言われると、よくナショナリスティックな現象として指摘されるけれど、ひとはぬいぐるみにだって自己を託すことができる生き物だと考えれば国なんか関係ない気もするよ。ひと息に民族主義へつなげるには飛躍があると思う。短絡している。「民族主義」なんて、はっきりとした立派な思想ではないんだ。たいていのひとは自他の区別がぼんやりしているだけです。くっきりとした輪郭のある、固い自己を持っているひとなんて、そんなにいない。煙のように、わたしの思考は縹渺としている。輪郭はふわっとぼかされたスフマート技法。モナリザみたいに曖昧な笑みを浮かべて。

 

いっぽうで、どうにも無味乾燥な事実があたまから抜けない面もあります。なんら解釈をほどこさない、味気ない、パサパサの現実。「ひとはいずれ死ぬ」みたいなあたりまえの真実。アスファルトに転がる虫の死骸や、枝から抜け落ちた花びらが好き。人間も生き物でしかない。死んだらモノになる。生きていても所詮、モノな側面もある。「国」なんかつくってアホじゃないか。こんなもん信じ切っている偉そうな人間はぜんいん可笑しい。滑稽なごっこ遊びだ。あるいは「人命尊重」。そんなものは虚構だ。戦争がある。ホロコーストがあった。ひとはひとをかんたんに殺す。人権?とぼけたことは言わないでくれ。

 

このように残酷で、信のずっぽり抜け落ちたガキみたいな無の感覚も、わたしにはあるのです。たまに底が抜ける。無にのまれて、立っていられない。宙吊りになり、一歩も動けない。無重力状態でもがく。重力をください。

 

きっと「託す」という人間のつくりだした関係の在り方は、この地にとどまるための重力になっている。底が抜けて、落ちても落ちてもつくところがないような、かなしいことにならないための、いくつもある繋留点。ちいさなぬいぐるみが、わたしの代わりに旅をしてくれるから、繋がれるものがある。日本というおなじ国に生まれたから、どこにいたってそれだけで繋がれることも。おなじ男性として、おなじ女性として、とか。大きくて、フィクショナルな括りまで。よくわからないけれど、わからないままたくさんの虚構を信じている。

 

映画監督の高橋洋さんが「物事は正面から描けば滑稽に見える」と言っていた。枡野浩一さんの短歌は、物事を真正面から正直に描いて、ひどく滑稽にして見せたのだと思う。まさに正しく。こういうことが言えてしまう知性がわたしは好き。だけどいっぽうで、ぬいぐるみに旅をしてもらおう!と、かわいらしい、ちいさな望みを託す、人間の知性も愛おしいと思う。

 

もうけっきょく、みんなかわいいなーと乱暴にも思ってしまう。ほんとうにどこから目線なのだろうこれは。ひとつ退いて眺めているようですが、わたしだってそう。変わらない。あらゆることを他に託しているから、ここにいられるのです。滑稽だよね。