スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

日記5

このブログのタイトルは「日記」ですが、天気のことも、食べたもののことも、なんも書いてなくてずいぶん生活感のない日記です。わたし、あんまり天気や食べものに関心がないからなあ。関心のないものについては書けないのです。

 

台風が近づいているそうです。台風には関心があります。ぐるぐる。すごいよね。ということは、天気にも関心があるのかもしれない。天気っておもしろいですよね。と書いてみる。どこが?天気ってね、でも、好きですよ。晴れたら晴れたで、雨なら雨で、好きですよ。天気ってね。台風も好きですよ。なんにも言えてませんね。関心ないです。

 

では、なにに関心があるのか、なんでしょうね。きみといるのが好きで、あとはほとんど嫌いで。

だから、ね。

 

細谷雄一『歴史認識とは何か』を少し読みました。新潮選書です。

 

 なぜ、歴史認識の共有が難しいのか。それを考える上でわれわれは、日本史や世界史のみではなく、歴史理論や現代政治をも含めて幅広い視野を得ることが重要である。というのも、イギリスの歴史家であるE・H・カーが述べるとおり、「歴史とは歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程であり、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話」だからだ。p.20

 

 歴史的事実とは、均一の濃度で塗られた一つの色ではなく、むしろさまざまな色が混ざり、見る角度や、光の加減によって多くの異なる色彩を見せるのに似ている。同じ色を見て、それを「緑」と言うものもあれば、「青」と言うものもある。どちらも正しい場合もあれば、どちらか一つがより正しい場合もある。国際政治における正義もまた、単調な色彩で描けるものではない。にも拘わらず、それがどのような色彩であるかを、正確に把握することが求められている。それゆえに、歴史認識を語る場合には、広い視野と深い知識、そして多様な要因をバランスよく総合する、知的な努力が求められる。それは、自らに都合が良くないような事実も真摯に受けとめる勇気と誠実さが求められている。p.35

 

歴史認識を他者と、他国と共有することのむずかしさを序章から叩き込まれる。ポストモダニズムのような「世界観」を語ること、ある種のイデオロギーを語ることに堕してはいけない、かといって、ランケみたいな実証主義に単純に帰ることもできない。

 

む、むずかしい!!それでも著者は真摯な勇気と誠実さをもって歴史を語ろうとしている。

国際的に共有するに足る、近現代の知を総動員した最大公約数的な歴史を語ろうとしているように思える。

 

序章だけ読んで、まったく毛色が違うが、保苅実『ラディカル・オーラル・ヒストリー』を思い出した。きちんと歴史と相対するということ、そしてそれを共有する、ということ、とは、どういうことなのか、考えさせられる。

 

『ラディカル・オーラル・ヒストリー』で保苅氏は、アボリジニのもつ「歴史的事実」と徹底的に対峙した。保苅氏はこう書く。

つまるところ、本書の目的は、アボリジニの歴史家たちから歴史分析を学び、西洋近代に出自を持つ学術的歴史実践と、先住民グリンジの歴史実践とのあいだのコミュニケーションの可能性を考察することにある。これこそが、私たち――アボリジニと非アボリジニの人々――がともに共有できる、歴史経験への真摯さを探索する適切な方法だと、私は信じているからだ。

アボリジニのドリーミーな歴史経験と対話をするには、まず近代知を根底から疑うところ、ときには捨て去るところからはじめなければならない。『歴史認識とは何か』で試みられている「歴史学」とは真逆のアプローチだが、アボリジニの歴史との対話を模索するのも歴史学の重要なしごとなのだと思う。

 

いやー、歴史って、むずかしくておもしろくてじつに豊穣なフィールドなんだなあ。みつを。なんてぼんやりした感想を述べて終わりたい。さいきんyoutubeで米粒写経と春日太一さんの、陰謀論だけで徳川260年の歴史を読み解くという対談を聞いたのだけど、これもおもしろかったしなー。

 

きょうは台風だったねー、ちょー台風ってたよ。

まじ台風きたじゃん。みたいな感じみたいな。