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日記4

なんだか愚痴っぽいブログだなあ、という感じが否めない。

明るくいこう。上を向いて歩こう。いぇーい!なんつってね。反吐が出るぜ!ケッ!まあまあ、そう言わずに。気分をあげて。

 

さっき思ったのは、同年代の若者がFacebookでワイワイやっているのをみると、暗澹たる気持ちになるが、お年寄りとか、いいおっさんが、近所の神社の例大祭かなんかで、ニッコニコしている画像をみると、うれしくなる。焼きトウモロコシ片手に、笑ってやがんの。決してバカにしているのではない。おっさんかわいいよ、おっさん。おっさんパワーだね。パワー・オブ・おっさん。

 

わたしもおっさんや、あるいは、おばさんになったらニコニコしよーっと。わたしがおばさんになったら、あなたはおじさんよ。

 

年を取るまでニコニコはとっておくんだ。年をとるまえに死ぬかもしんないし、年をとってからいきなりニコニコしろといわれても、できない可能性もあるけどね。練習はたいせつだね。じゃあ、だれもみてないところでいまからニコニコするよ。若い時はあんまりニコニコをみせびらかすもんじゃないんだよ。若者は不機嫌でいろ!ゴキゲンナナメでいるべき!

 

わたしは半世紀くらい生きてからニコニコしよう。

 

若いやつは、べつに不機嫌でいい。幸福じゃなくてもいいと思う。だけど、老人にはゴキゲンで、幸福でいてほしいね。年を取ったら、幸せを語りたい。パリピになるんだ。クラブで踊りたいんだ。腰や膝を痛めてボロボロになって骨密度スッカスカで動けなくなってそれでも幸せを語り続ける。朝が来るまで終わることのないダンスを。この国のクラブは老人に占拠されるべきだ。

 

若いやつは暗くてぬめぬめした精神世界に浸ってりゃいいんだよ。それこそ若い時分にしかできないことだ。

 

高橋源一郎『動物記』を読んだ。やっぱり高橋さんは小説がいちばんおもしろいね。なんてったって小説家だからね。「あんたの小説はむずかしいね」と菅原文太は『恋する原発』を読んで高橋さんに言ったそうだが、そうだね。

 

わたしは小説なんて、なに読んでもあんまりよくわかんないよ。詩もわかんないし、芸術的な、なにかこう、そういうのってわかんないね。批評的な視座もまるでもたない。我慢を要するものだね、どんなエンタメ小説でも、お文学でも、我慢して読んでいるよ。絵画でも、音楽でも、ぜんぶ我慢だ。

 

『動物記』の帯にはこうある。本日未明、政府は「開戦」を宣言しました。これじゃなにか勘違いしてしまう。勘違いさせるための帯文なのだろうけれど。わたしだったら、これを抜き出す。

スローじゃねえよ。ロハスでもねえよ。超ハードコアだよ。p.195

そう、「動物」の世界は超ハードコアなのだ。

 

いくつか短編が入っているのだけれど、『宇宙戦争』がよかった。「よかった」といっても、我慢する程度が低く読めてよかった、というぐらいの「よかった」である。

やっぱり地球は滅ぼすべきだね。

 

「決まってるでしょ。環境汚染、汚職、不倫、甘いものの食べすぎ、美容整形、派遣社員への差別、ニート、鯨の絶滅、こんなものを放っておいて、宇宙全体に広がったら、宇宙そのものの破滅よ」p.126

 

「アダルト・ヴィデオ、SM、叶姉妹、豊胸疑惑のジャネット・ジャクソン、ノーパンでパーティへ行ったブリトニー・スピアーズ、それから、もちろん、パリス・ヒルトン、そういったものが宇宙に蔓延するのを防ぐために、宇宙人が攻めてくるんだってさ」pp.128-129

 

こんなものたちが宇宙に蔓延したら、たいへんだもんね。

自分が誰かもわからない人類だもんね。

 

「自分が誰だかわからないから、なにも決められない」

「おれだって、自分が誰なのかわからない。キリストもハムレットもアナキン・スカイウォーカーもそれで悩んだんだ。よくある悩みだよ」p.129

 

そうそう、みんなね、自分が誰だかわかったようなフリしてるだけだよね。

 

あと『文章教室2』もよかった。テンションがよかった。むちゃくちゃだけど説得力があった。

「イグアナとか、風邪ひくんですか?」

 

 いい質問ですね。誰もが一度は考えるかもしれないけれど、実際には、そこで考えることをやめてしまうようなこと。その好奇心があれば、きっと「いい文章」を書けるようになるでしょう。p.192

勉強になるね。

 

あるいはなんだろう。1時間しか寿命のない1時間ユスリカという生き物が紹介される。そしてこんな一文が飛び出す。

 

一時間ユスリカの前で文章は無力なのか?

 

この問いはほんとうにせつじつなものを含んでいるなと思った。サルトルの「飢えたこどもの前で文学はなにが可能か?」みたいな問いを想起させるものがある。この小説は、小学校の道徳の教科書に採用するべきだ。

国語の教科書でもいい。こういう小説を載せてほしい。

誰だって自分を基準にして文章を書くものです。p.204

ものを書くにあたってまず教えるべくはこういうことだ。そして、その基準をすこしでいいから、ずらしてみると、おもしろいよ、ということを、この小説は教えてくれる。

さらに「自分基準」をずらす、ということは道徳にも通じるのだと思う。

しかしです、子どもが死んでも悲しくない生きものはたくさんいるわけです。というか、そっちの方が遥かに多い。そもそも、一度に産む数だってまるでちがう。マンボウは一度に二億個の卵を産むんです。p.205

人間の基準からいちど離れてみる。

 

この小説は、「永遠の、閉じることのないループの中で生きている」ベニクラゲの話で終わる。1時間ユスリカのスケールから5億年のループを続けるベニクラゲのスケールまで、非常に広い視野での「文章教室」が繰り広げられる。動物の生態もたくさん知れるから、理科の教科書に採用してもいいだろう。とても教育的に含むところの多い小説だ。きっと小学生にもわかりやすいし、なによりたのしい。

 

『文章教室3』にも、とても基本的だが、ためになることが書かれていた。

ことばというものは、そもそも、「あらゆる者たち」に向かってではなく、特定の「誰か」に向かって書かれたものです。p.222

そうなのじゃよ。よくブログやSNSの投稿なんかは「不特定多数に開かれている」などと言われるが、「不特定多数」に向けて書かれたことばってなんだ?「不特定多数」ってだれやねん。知ったことか。「不特定多数」のためのことばなんて、そんなものはない。どんなことばでも、だれかに、どこかに向けられているのだ。あなたに。自分に。過去に。未来に。時代に。歴史に。宇宙に。

 

ことばを「不特定多数に開く」ことなどできない。ことばは、まず自分に縛られている。そこには選択がある。制約がある。「全方位的に開かれたことば」、そんなものを書くことができれば、そんな言語があれば、それはすばらしいと思う。そもそも「日本語」という時点でむちゃくちゃ閉じてる。

 

きょうは、親戚のおばちゃんから、朝から晩までディズニーツムツムのおねだりLINE通知がきまくって、ちょっとうるさかった。返すからくるんだけど、返さなければこないのだけど、「無視」ってわたしはできないタチなんだ。どうしても。